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2012.04.22 山河隆々
思いつきで東三河に車を走らせた。

行き先は、まずは長篠合戦で有名な設楽原。
高速で豊川まで走ればすぐなのだが、豊田より松平郷を越え作手から設楽原へ下りることとした。
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松平郷から作手まで狭隘な谷間をつないでいく道は、いかにも三河人が細々と暮らしていた風景を思い起こさせてくれる。

設楽原は作手の谷間を下り、ほどなく豊川に合流しようとしたとことろにある。
小さな谷間が東西に連続していて、両軍あわせて5万近くの兵力が戦った場所としては非常に小さく思えた。
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織田・徳川軍は連吾川という小さな川を挟んで馬防柵が並べられたといわれる。
小さな川ではあるが、川岸は深く切り立った崖になっているところが多い。
P1000516.jpg
馬防柵は復元されている。
想像以上に大きなものだ。この木材を岐阜より兵一人につき一本運んだというが大変な労力だっただろう。

この連吾川沿いの谷間が最も激しい戦いのあった場所で、点々と武田方の武将の墓碑が多くあった。
これらの墓碑の点在を見ても、数に劣る武田軍があまりにも南北に陣が伸びすぎていたように思える。


設楽原より豊川を上流へ谷を2つほど越えて上ると長篠城趾がある。
P1000518.jpg
長篠城は今川氏、武田氏、徳川(松平)氏の影響下におかれ、まさに三河の戦国期において最も時代に翻弄された城のひとつであるといえる。
三方向を切り立った崖と川に囲まれ、北側には伊奈街道を押さえるように外郭が形成されていた。
本丸と野牛曲輪をすっぽりと二川が囲んでいる。
P1000523.jpg
西側の矢沢川も滝になって落ち込み三方向が非常に深い崖となっていて、まず這い上がることは不可能だろう。
規模は非常に小さいが、一目見ただけで難攻不落であったことがうなずける。

この城は非常に見事な平城であるが長篠合戦の損耗が激しく、戦後廃城となり豊川下流域に奥平氏は新城を築く。



伊奈街道沿いである豊川流域の谷は、東三河の穀倉地帯であると同時に大きな物流路でもあったため、要衝といえる場所に城跡が点々と遺る。
下流域にある野田城趾もそのひとつである。
P1000537.jpg

野田城と言えば菅沼氏の居城であり黒澤明の影武者で有名。信玄西上作戦における最後の戦いの場でもある。
一説には、この城攻めのとき夜な夜な聞こえる笛の音を楽しみにきた信玄を狙撃し、その傷が元で信玄が亡くなったともいわれる。
真偽はともかく狙撃した地点も伝承として残されている。
また、信玄は東西を水を湛えた淵に挟まれ難攻不落であったこの城を金堀衆をつかって水の手を断ったらしい。
本丸跡には水を断たれたと思われる井戸の跡も残されていた。


その後、豊川をさらに下流に走り三河牛久保の長谷寺まで行ったのだが、残念ながら遅くなり拝観することは出来なかった。
P1000539.jpg

これについてはまた後日。
暑くなる前に自転車で行こう。
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