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2012.11.23 安土の城
雨で朝ライドもなかったので約9年ぶりに安土城跡へ行った。
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非常にキレイに整備されていて入場料もいるようになっていた。
秀吉や利家邸跡を見ながら大手口を登る。

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安土城趾で一番目につくのはやはり石仏。
それも階段などの石材に使用されている。裏向けるようなこともなく人が踏むような箇所に。
あらためて施主の強烈な意思を感じる土木建築物だ。

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仏足石。
これは9年前にはなかったように思う。
釈迦の足跡を象ったもので、数が少なく非常に貴重なものであるという。
これは天主の石垣跡から出土したそうだ。
つまりこれも建築資材として徴収されたものなのだ。

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天主跡。

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個人的にこの城の一番好きな風景は天主跡より西(琵琶湖方面)を望む景色。
戦前まではすぐ足下まで湖岸がせまっていたそうだが、干拓によって琵琶湖は遥か彼方になってしまった。
足下の湖面に映る夕日を想像すると、ここは日本有数の景勝地だったのかもしれない。
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2012.07.11 海軍モノ
ひさしぶりに日露海軍モノを2つ。

島村速雄と広瀬武夫。
いずれも小説というより伝記。


海将伝―小説 島村速雄 (文春文庫)海将伝―小説 島村速雄 (文春文庫)
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海将伝については、島村速雄自身というより周囲の人間に関する表記が多かった。
島村自身の人間性や側聞を考えるとどうしてもそうなってしまうか。
ただ、日露役後の東郷平八郎についてがかなり批判的に描かれていたのが新鮮だった。
是非はともかく、もっともではある。


広瀬武夫 (PHP文芸文庫)広瀬武夫 (PHP文芸文庫)
(2010/11/16)
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そして明治のヒーローといえば広瀬武夫中佐。
いわずもがな軍神第一号。
個人的には明治という時代そのものを人格化した人物であるように思っている。
ドラマティックな人生を歩んだ人であるが、何を成したかといわれればなかなかに難しい。
敢えていうなら、プーチンが柔道やってるのも彼の影響か。
自分は「ふる雪や、明治は遠くなりにけり」の一節を耳にすると、まず第一に広瀬武夫が浮かぶ。
「ロシヤにおける広瀬武夫」は解釈の難しいところが多いが、これは非常に分かりやすい伝記だった。
ただ、どうしても史実に沿った伝記モノなので読み物としてはあまり楽しめなかったか。

島村速雄は理想の上司
広瀬武夫は理想の人物像

イメージとして多くの日本人にとってはそんな印象があるのではないだろうか。
それを再認識させられた。
2012.06.21 傾奇モノ
御園座で歌舞伎を観てきました。
歌舞伎観るのは2年以上ぶり。

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演目は市川海老蔵の石川五右衛門。
素行不良か酒グセ悪いかしらんけど、やっぱり千両役者やね~。
ものすごく面白かったです☆
2012.06.17 蛍光
鳥川ホタルの里へホタル鑑賞へ行きました。
そこらじゅうホタルだらけでした。
人もクルマも多かったけれど。

で、ホタル撮影会。
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上の写真でF3.5・ISO3200・SS20S
若干ノイズが気になるかなぁ。

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これでF3.5・ISO1600・SS20S

ISO1600くらいでSS15S~20Sくらいがいちばんキレイに撮れる気がします。
まぁホタルのヤル気次第なんだけど。
2012.04.22 山河隆々
思いつきで東三河に車を走らせた。

行き先は、まずは長篠合戦で有名な設楽原。
高速で豊川まで走ればすぐなのだが、豊田より松平郷を越え作手から設楽原へ下りることとした。
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松平郷から作手まで狭隘な谷間をつないでいく道は、いかにも三河人が細々と暮らしていた風景を思い起こさせてくれる。

設楽原は作手の谷間を下り、ほどなく豊川に合流しようとしたとことろにある。
小さな谷間が東西に連続していて、両軍あわせて5万近くの兵力が戦った場所としては非常に小さく思えた。
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織田・徳川軍は連吾川という小さな川を挟んで馬防柵が並べられたといわれる。
小さな川ではあるが、川岸は深く切り立った崖になっているところが多い。
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馬防柵は復元されている。
想像以上に大きなものだ。この木材を岐阜より兵一人につき一本運んだというが大変な労力だっただろう。

この連吾川沿いの谷間が最も激しい戦いのあった場所で、点々と武田方の武将の墓碑が多くあった。
これらの墓碑の点在を見ても、数に劣る武田軍があまりにも南北に陣が伸びすぎていたように思える。


設楽原より豊川を上流へ谷を2つほど越えて上ると長篠城趾がある。
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長篠城は今川氏、武田氏、徳川(松平)氏の影響下におかれ、まさに三河の戦国期において最も時代に翻弄された城のひとつであるといえる。
三方向を切り立った崖と川に囲まれ、北側には伊奈街道を押さえるように外郭が形成されていた。
本丸と野牛曲輪をすっぽりと二川が囲んでいる。
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西側の矢沢川も滝になって落ち込み三方向が非常に深い崖となっていて、まず這い上がることは不可能だろう。
規模は非常に小さいが、一目見ただけで難攻不落であったことがうなずける。

この城は非常に見事な平城であるが長篠合戦の損耗が激しく、戦後廃城となり豊川下流域に奥平氏は新城を築く。



伊奈街道沿いである豊川流域の谷は、東三河の穀倉地帯であると同時に大きな物流路でもあったため、要衝といえる場所に城跡が点々と遺る。
下流域にある野田城趾もそのひとつである。
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野田城と言えば菅沼氏の居城であり黒澤明の影武者で有名。信玄西上作戦における最後の戦いの場でもある。
一説には、この城攻めのとき夜な夜な聞こえる笛の音を楽しみにきた信玄を狙撃し、その傷が元で信玄が亡くなったともいわれる。
真偽はともかく狙撃した地点も伝承として残されている。
また、信玄は東西を水を湛えた淵に挟まれ難攻不落であったこの城を金堀衆をつかって水の手を断ったらしい。
本丸跡には水を断たれたと思われる井戸の跡も残されていた。


その後、豊川をさらに下流に走り三河牛久保の長谷寺まで行ったのだが、残念ながら遅くなり拝観することは出来なかった。
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これについてはまた後日。
暑くなる前に自転車で行こう。
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